はじめまして。じゅりと申します。
私は今、育児休業を取得し、絶賛子育て中のママです。
今回の記事では、私が育児をする日々の中で、
ひょんなことから「仕組み化」を知り、
ネット起業することになった経緯をお話しようと思います。
さっそく「仕組み化」を知ったきっかけを
お話したいところではありますが、
よくわからん人の話を聞くのも、
うさんくさく聞こえるかと思います。
私なら
「何この人。怪し!」
って思います。
なので、まずは皆さまに
私のことを知っていただきたいので
自己紹介をさせてください☺️
どうぞお付き合いくださいませ。
■ブラック企業やフリーター、
ニート時代を経て、ただ今育休中
■楽をしたい一心で、
これまでに様々な情報商材にお金をかけるも
実行せず。続かず。1円も稼げたことがない。
詐欺にも危うく引っかかりかける。
■「仕組み化」を知り、
お金と時間の両方の自由を手に入れるべく、
ネットで起業し「仕組み」を構築
■絶対に復職したくないので、
ネットビジネスのみで生活ができることを目指して奮闘中
以前の私のように
・ブラック企業で働いている
・フリーター、ニートなど
「現状を変えたいが何をしたらいいかわからない人」
▷▶︎▷▶︎0→1の突破方法を知り、お金の稼ぎ方の選択肢を増やす
日々がんばるママ、主婦
・旦那の給料だけでの生活に不安を感じている。
・子育てってすごいお金かかるじゃん!将来不安だな…。
・お金も稼ぎたいけど、子どもとの時間も大切にしたい。
・仕事に家事に育児…寝不足続きの生活がツラいワーママ。
「自由なお金と時間を手にしたいママたち」
▷▶︎▷▶︎心のゆとりをもてる
→今よりもっと子どもや旦那、家族とゆったり向き合える
といった感じで、
以前の私のように悩みをかかえる人たちが
私の発信を通して
生活が少しでも明るくなってくれたら嬉しい
という思いで情報発信をしております。
さて、ここからは私の詳しいプロフィールをお話しますね。
活発な小学生から一気に陰キャ中学生に
私はとても活発な小学生でした。
休み時間、昼休みには必ずと言っていいほど外遊びをしていました。
「女子と遊ぶより、男子と遊んだほうが本気出せるから楽しい!!」
なんて思っていたほど身体を動かす遊びが大好きで、
ドッヂボールにサッカー、中線踏み(知ってますか?)
ばかりしていた記憶があります。
3年生のとき、保育園の頃から仲のいい友達が
ソフトボール部に入るという話をききました。
小さい頃からよく、両親とキャッチボールなど、
ボール遊びをしていた私は、
楽しそう!友達もやるならやりたい!と、
友達の後を追うようにソフト部に所属しました。
それからというもの、
厳しい監督のもとで毎日一生懸命に練習しました。
ノックの最中に監督がブチ切れて、
バットを20m程飛ばしたのは今でも忘れられない光景です。笑
ポジションは憧れの上級生がキャッチャーだったので、
私もキャッチャーをやりたかったのですが、ショートでした。
しかし、嫌なわけではなく。
ショートは上手い人のやるポジションだと言われ、
加えてオールマイティに全てのポジションをこなせた私は、
「私ってすげー!才能あるな!」なんて
調子に乗った小学生でした笑
監督が怖くて、ソフトは嫌い!もうやらない!と思いながらも
最後までやりぬき、引退をしました。
(のちに自分はソフトが嫌なわけではなくて
監督が嫌なだけで、ソフト自体は楽しかったな、
と感じました。)
部活以外では、いとこがエレクトーンを習っていたので、
弾いているところをよく近くで見ていた私は
「学校のあとに‟習い事”に行くってカッケー!!」
「手と足がバラバラに動いててスゲー!!」
「こんな風に弾けるようになったらいいなぁ!!」
やってみたい気持ちがどんどんふくらみ、
エレクトーンを習いたい!と親に頼みました。
反対はされなかったのですが、
まずは基本的なピアノを習ったら?との提案でした。
鍵盤の重いピアノを先にやった方が
ピアノとエレクトーンの切り替えで鍵盤の重さに苦労しないんですよね。
一般的なのはピアノですし、
ピアノも弾けたらカッケーじゃん!!
って気持ちもあった私は妙に納得し、
結局ピアノを習うことになりました。
家では全然練習をしなかったので、
レッスンの進み具合はめちゃくちゃ遅かったです。笑
けど、音楽も好きな私は楽しく続けていました。
基本的なバイエルを終えて、
5年生辺りからエレクトーンに切り替えました。
ずっとやりたかったエレクトーン。
毎週のレッスンの時間があっという間に感じました。
「私もいとこみたいに手と足バラバラに弾けてる!すごい!!」
「え!あの好きな曲の楽譜売ってる!!弾きたい!!」
電子の力で、自分の実力以上の演奏ができる感覚に、
いい気になっていました笑
好きなアーティストの曲をたくさん弾いて楽しかった!!
といった感じで、
好きなことをたくさんさせてもらい、
ほぼほぼ身体を動かしていた記憶しかない小学生時代です。
そして中学校へ進学すると、
「中学生になったし勉強がんばる!」
という思いが空回りしたのか、
活発な小学生とは打って変わって
“教室ではおとなしい子”になりました。
入学後しばらくは
休み時間もあまり話すこともなく、本を読んでいました。
けど本を読む習慣がなかったので、正直苦痛でしたし
何の本だったか、どんな内容だったかも何一つ憶えていません。
授業はまじめに受けていたつもりです。が、
ねむけにはめっぽう弱く…
いつの間にか寝ていて。
いつでもノートには睡魔と戦った証の
ニョロニョロ線がたくさんありました。
部活はずっとやりたかったバレーボール部に入りました。
母親がママさんバレーをしていて、
幼い頃からずっと見ていたので
私もやりたいという思いがずっとありました。
(小学校はバレー部なかったのです)
実際は音楽もやりたくて、
吹奏楽部とめちゃくちゃ迷っていたのですが、
最終的にバレー部を選びました。
そこからはバレー漬けの中学生活です。
166cmと背がそこそこ高いので、アタックがよくできた私は
先輩を差し置いて試合に出してもらえるようになりました。
きっと先輩もおもしろくなかったでしょうね。
きっと先輩には嫌われていたと思います。
あからさまに何かされたことはありませんが、
他の子と私に対する態度の違いをなんとなく感じ取っていました。
先輩が嫌すぎて、バレーは好きだけど部活をやめたいと
泣きながら親に相談したこともあります。
「泣くほど嫌ならやめちまえ。
そんな先輩のために無理して続けなくていい」
と親に言われ、
本当にツラかったらやめてもいいんだ。
親は私の味方なんだ。
と、心が楽になりました。
おかげで、私を嫌いな人を気にしていても仕方ないと
気持ちを切り替えることができ、
自分のペースで今まで以上にバレーをがんばりました。
大切な仲間であり友達ができ、楽しく過ごせた中学生時代でした。
バレー一色の高校生
寝てばかりでしたが、成績はそれなりだった私は、
先生からの勧めで県立の進学校の女子高に進みました。
高校でもバレーをやることを決めた私は、
朝から夜までバレー漬けの高校生活を送ることとなりました。
私の高校のバレー部は
中学のころよりも、何倍もレベルが高く、意識も高く、
今まで以上に真剣にバレーに打ち込みました。
ノートにはあいかわらずニョロニョロがたくさんでした。笑
女子校ときくと
「いじめがすごいイメージ」と
友達によく言われましたが、
(きっと「ライフ」というマンガの影響が大きい)
実際はそんなことはまったくなくて、
女子だけだからこそ、素の自分を出せる人が多かったなと思います。
私の周りにはおもしろい人ばっかりでした。
いつも大笑いしていました。
あっという間に月日が流れ、進路を決める時期。
私は自分が何をやりたいのかがわかりませんでした。
ほんとの本当はずっと歌うことが好きだったので、歌手になりたかった。
けど、その道へ進む勇気はありませんでした。
このことで何回も後悔しました。
思い返せば、
仲のよかった子がやるというのを聞いたから自分もやりだしたソフトボール。
いとこがやってたから自分もはじめたピアノにエレクトーン。
母親がやっていたからやりたかったバレーボール。
中学の先生に「お前はここに行け」と言われて決めた高校。
自分の意思でものごとを決めたことがなかったんです。
その頃、高校のすぐ近くの幼稚園に実習に行く授業がありました。
子どもたちとそこそこ楽しく遊んだ私は、
「子どもと遊ぶの楽しかったし、ピアノ弾けるし、歌もうたっていられるし!保育士向いてんじゃね!?センター試験なんて受けたくないし、大学で4年も勉強するの嫌だしな〜保育の専門学校で資格取れば、将来あんたいじゃん!」
と、安易に自分の将来を決めることとなりました。
そして堕落の専門生活へ…
絶望の専門学校
AO入試で保育の専門学校に合格し、
親元を離れて東京で一人暮らしを始めました。
学校生活がはじまり、初めてのスーツと初めてのメイク。
これからがんばるぞ!とドキドキワクワクな気分でした。
私の中高は、髪を染めれない学校でした。
高校を卒業したら髪も染めてオシャレな自分になるのかな〜!
なんてウキウキしていた自分です。
しかし進学先の専門学校は、
提携の幼稚園が敷地内にある学校だったので、
子どもたちに会うこともあれば、送り迎えの保護者の方もいます。
あんまり派手な髪色だと、学校にクレームが入るとか…。
そもそも実習もあるため、
私の 髪を明るくしてオシャレしたい! という思いは崩れ去りました。
たくさん遊びに行ったり、自由な時間に登校したりするのかな!!
なんて生活も楽しみにしていましたが、
実際に授業が始まると、
9時〜16時半、17時半頃まで授業が毎日びっしり。
朝から夕方まで授業が毎日…
高校と何ひとつ変わらないじゃん…。
私の自由気ままな学生生活の憧れも崩れ去りました。
それでもまじめに授業を受け、ノートにニョロニョロを書き。
初めての実習がはじまりました。
正直、心が折れました。
朝早く園に着き、掃き掃除、雑巾がけ。
実習させてもらってる身として、一番したっぱとして、常に先生方の顔色を伺い。。
率先して雑用。
一日のおわりには、こと細かく書き込んだ日誌。。
子どもと遊ぶのは楽しかった。
でもそれだけじゃない。
ケンカしてるときはどう仲裁する?
子ども自身の育ちを促すためにどう声かけする?
自分の力でできるようになるためにどこまで援助する?
日々の活動は目的をもってどう計画していく?
保育の仕事は甘くない。んですよね。当たり前です。
人の基盤となる幼少期の養育をする重要な職業なんですから。
『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』というロングセラー本があります。
それくらい、この時期は重要なんです。
保育士さんは人の命も預かって働いています。
そんな偉大な職業を
私は軽い気持ちで目指してしまったので、痛い目を見ました。
実習も半ばになると、トイレ掃除の時間が楽しみになっていました。
ふぅ〜。やっと気が休まる。と、一人で無心でトイレをキレイにしていました笑
なんとか初めての実習を終えた私が思ったこと→
「もうやめたい。保育なんかやりたくない。」
はい、甘ちゃんです。
それからというもの、最初のやる気はどこかへ行ってしまい、
ますますニョロニョロを量産。
適当に授業を受け、ほぼ勉強もせずにテストを受けました。
そして成績発表。
その結果は・・・
クラスで1番でした。
何の壁もない、苦労もない、何かを一生懸命がんばって乗り越えることもない。
ずっと平たんに日々が流れていく人生ってどう思いますか?
すごくつまらないと思うんです。
何か目標があって、それを達成するためにがんばる。
そんな日々の方が活気がうまれて、楽しいと思うんです。
私の専門生活は「つまらないもの」になり、
どんどん堕落の生活へと変わっていました。
その頃の私は、
「なんでこんな当たり前のことを授業で聞かなきゃいけないん?そんなことわかるだろ。時間の無駄すぎ。こんなことに授業料払ってんのかよ。」
「こんな当たり前のことを一生懸命勉強してるくせになんでそんな点数しか取れないの?」
と、周りを批判したり、周りの子を馬鹿にするような思考をしたり。
最悪ですね。
「あんなレベルの低い教員たちの給料を払うだけで資格も取らずに退学するのはありえない!国家資格くらいもらわないと割に合わないわ」
という最低なモチベーションを胸に、
単位が取れて卒業できればいいや。
と学校生活を過ごしました。
その頃は居酒屋のバイトをしていました。
みんなで協力して、忙しいお店を回していく感覚に
部活のような一体感を感じ、バイトだけが楽しい毎日でした。
バイトに行って、バイトおわりには毎日遊びあるく。
明るくなった頃に寝て、授業もサボり。
ほんとこの頃の自分最低最悪!!
実習をすべて終え、まったくやる気のなかった私は、髪の毛も明るく染め。
教頭先生に呼び出され、1対1で注意されたりもしました。
そんなんでは卒業させることはできない。と言われ…
それだけはダメだ!と焦って髪色はもどしました。
単位はギリギリで
あと1回、1分でも遅刻したら落単ってところで
なんとか卒業しました。
こんな感じのクソ野郎だったので、もちろん就職する気もゼロでした。
その頃、外語学校に進学した友達が、
ペラペラ英語を話すのをみて、うわぁ!いいなぁかっこいい〜!英語話せたら将来の道ひろがるじゃん〜!!
と、また軽い気持ちで留学することを目指しはじめました。
フリーター、ニート、フリーター
留学することを決め、居酒屋バイトを続けながら、いろいろと調べていました。
なにやらエージェントというものがあるらしい。
話を聞きに行ってみよう。
そこで話をすると、トントン拍子で話が進み、
留学先、期間、時期など、どんどん決まっていきました。
言葉も通じない、知らないところへ一人で行くのは怖い。
けど頑張ろう。
そしてビザの発行の手数料だったかな?10万円を親が出してくれました。
そして私は・・・・・・
「留学やめる」
そのときの彼氏に行ってほしくないと言われ、
迷って迷って、
やらない理由をたくさん探してしまいました。
海外はカラオケがあまりないんだって…
近くにボイトレ教室があるから通いたいんだ…
必死に行かない理由をつけて、親にあやまり、
留学をあきらめました。
今では行かなかったことを後悔しています。
ついに何の目標もなくなりました。
留学するから、と居酒屋のバイトはやめてしまっていたので、
何もやることがありません。
実はそのときは彼氏の家に転がり込んで、一緒に住んでいたのです。
じゅりはいてくれるだけでいいよ。
たまにおいしいご飯を作ってほしいな。
という付き合った当初のあまい言葉に甘えて、
毎日ゲームばかりしてバイトも探さず引きこもる生活。
ゲームのログに
18時間が経過しました。って表示があったのを覚えています。
ずっと外に出ない生活をしていたので、どんどん気持ちも落ちていきました。
切り崩してきた貯金も底をつき、
親にお金を借りるようになりました。
「私は親不孝だし何も達成できないんだ…」
「私はきっと周りの人からも悪く思われてるに違いない」
「私なんて、本当にダメな人間だ…」
悪い思考ばかりが頭の中をうめつくし、
対人恐怖症になっていました。
さすがの彼氏も
なんでお金ないのにバイトもしないの!?と怒っていました。
バイトしたいけど、人と話すのが怖いから働けない!
自分にはできない。無理。と泣いてケンカもしました。
はぁ…この頃の自分はひどすぎて、
思い出して書いてるだけでも気分が落ちます(´・ω・`)笑
どん底だったのではないかと思います。
友達がガールズバーでバイトしていることを聞き、
もういよいよお金がないからやるしかない。
と、紹介してもらい働きだしました。
時給はいいし、日払いでお金も受け取れるし、
お酒作っておじさんとお話するだけでいいんだからがんばろう。
そんなモチベーションでした。
いざ働きだすと、対人恐怖症だと思っていたのは、
自分の気の持ちようの問題でしたね。
自分でそう思い込んでしまっていただけでした。
それからは緑や赤の制服のコンビニ、
赤い有名チェーンのファミレスバイトをかけ持ちして生活しました。
どれも19:00から、22:00からというシフトだったので、
陽の光をまったく浴びない生活。
ドラキュラ生活を長いことしていました。
地黒と高校時代いじられた肌が、少し白くなったことだけが
唯一の良かったことですね。
人間、陽の光を浴びないとダメです。
気が滅入るから。
そしてそんな生活を3年程続けたころ、
地元にもどることとなりました。
実家大好き地元大好きなので、
やっと戻って来れる!と嬉しかったです。
初めての就職先はブラック企業
地元へもどってきたのを機に
正社員として就職し、働くことを決めました。
初めてハローワークに行き、事務の仕事を探しました。
え、なんで急に事務?と思うでしょう。
母が長年、事務の仕事をしているんです。
オフィスカジュアルという服装で、
てきぱき電話や書類整理、仕事をさばいていくところが
かっこいいなぁすごいなぁと憧れていたことに気が付いたからです。
何社も不合格で履歴書を返却される中、
ひとつの会社から内定の通知が届きました。
晴れて私も社会人だ!!✨✨
やっとフリーターを抜け出せた!
私もやればできる!✨✨
と、嬉しい気持ちでした。
が、いざ働きはじめると、まず契約の書類に違和感をおぼえた。
じゅり様 準社員
・
・
・
ん?んん??準社員??正社員って話で入社したよな??
まぁこれはきっと、面接のときに聞いた
“3ヶ月の試用期間”ってやつのことだろうな。
3ヶ月経てば正社員として契約書作り直すんだな。
この時点で少しおかしいと思った私は、この会社を信用していなかった。
・うちの会社の悪口を言ってはならない
・同業他社に転職してはいけない
・うちの顧問先の会社に転職してはいけない
要約しましたが、契約書にこんな内容が書いてありました。これって、どう感じますか?私は、そんなことを約束させないといけないような会社なの⁉と不安になりました。ハンコ押したくない…でもせっかく決まった正社員の仕事…親も喜んでくれてたし、4年勤続で退職金もらえるって書いてあったからせめて4年は頑張ろう。
3ヶ月後の契約書
じゅり様 準社員 ・ ・ ・
おかしい。私は正社員として応募したはず。
4年頑張ろうと決めたはずの心が、どんどんやられていきました。
「他の部署のやつががんばってるのに、お前だけ先に帰るのか?」
「リーダーとしてがんばってくれたやつを、
飲み会でねぎらってやろうとは思わないのか?」
無駄な強制残業。就業後の飲み会への強要。
ここの会社には典型的なパワハラ上司や、
事あるごとに身体を触ってくるセクハラじいさんがいました。
もうムリ。
私の心はあっという間に砕かれ、5ヶ月も経たないうちに退社しました。
となると困った。またしてもお金がない。
また親にお金を借り。金融機関からも50万円くらい融資を受けてなんとか生活しました。
もう仕事を選んでる余裕はない。
ここで私は、
通わせてもらって取らせてもらった資格を使って働くことが親孝行になるんじゃないか!
そう思いました。
保育の仕事は実際にはやったことはありません。
やりたくないって思ったけど、やってみたら楽しいんじゃないか。
そうして、私は ほいくえんのせんせい になりました。
保育士→ママ→ネットビジネスとの出会い
実際に保育士として働き出すと、大変だけどすごく楽しい日々でした。
もちろん一番新人ですし、経験もゼロ。
わからないことばかりで、先輩に、子どもたちに、
いろいろ教えてもらいながら過ごしました。
そんなとき、妊娠が発覚。
一番年下だし一番したっぱなのに申し訳ない気持ちもありましたが、
そんなことよりなにより
「私のなかに新しい命があるなんて!」
「うれしい!愛おしい!」
「何がなんでもこの子を守る!」
私には産むという選択肢しかありませんでした。
身重で働きつづけ、体調が優れないこともしばしば…
病院に行くと入院の一歩手前の状態でした。
周りの先生たちにも助けてもらい、産休に入りました。
その後、無事出産。ママになりました。
こんなにかわいい子がお腹の中にいたなんて!!
ずっとママが愛するからね
もうチョー親ばかです。笑
かわいくてかわいくて仕方ない!!
1年間の育休がおわったら復職して、支えてもらった分がんばりたい。
そう思っていたのですが。
そう思っていたのですが…。
当たり前のことですが、私がお休みをもらってからの保育園は
“私の存在がない園”になっていました。
年長さんたちと会える最後の日。卒園式。
もちろん顔を出したかった。
しかし、コロナウイルスの感染拡大の影響を受け、
一瞬顔を見に行くことすら許されませんでした。
仕方のないことですが、どうしてもショックの方が大きくて。
私ってここの園の一員じゃないのかな・・・
一緒に楽しく過ごした子どもたちを送り出すことも許されないんだ・・・
ショックすぎて心が折れた私は、園宛てに
子どもたちへの最後の手紙を出すこともできなかった。
失意の中、新年度がはじまりました。
「園だよりに育休中の先生がいるって書いてくれるかなぁ」なんて期待していました。
私のことなんていっさい書いてありませんでした。
園のグループラインも新しくなり、招待はされませんでした。
そんなことはないと思いつつも
私の居場所はここにはなくなったんだな・・・
と感じ、悲しかったです。
だったら自分の愛しいかわいい子どもと、もっとゆっくり時間を過ごしたいわ。
復職する気がなくなっていくのがわかりました。
そんな気持ちで育児をしていたある日。
いつものようにのんびりTwitterをみて過ごしていると、
「仕組み化」でお金も時間も自由な人生を手に入れる
というものが目に入りました。
妙に気になった私は、即その人のブログを読み、メルマガに登録。
読み進めていくと、その人は、誰でもできる方法でお金を稼いでいるとか。
インターネットの知識ゼロだったが仕組みを作り、ひと月で3万5千円の収益を達成。
読めば読むほど、そこには自由な世界がありました。
「復職しなくて済むように、自分でお金を稼ぎたい。」
「もっと子どもとたくさん過ごせる時間もほしい。」
「もう会社に縛られ、人間関係に悩まされるのは嫌だ」
もうこれしかない。私も仕組みというものを作りたい!!
私は迷うことなくその師匠の企画に参加して勉強しました。
そして自分自身もネットで起業し、「仕組み」を構築するようになったのです。
起業後、これから目指すもの
それからというもの、自分自身の考え方も変わり、
毎日の生活も今までよりもグッと充実したものになりました。
そして新しい夢もできました。
今までさんざん迷惑をかけてきた親に親孝行をしたい。
「実家の建て替えをすること」です。
ここまで読んでくれた方ならわかるとおり、
私はなにかすごい才能があったわけでもなければ、
むしろクズ寄りの人生を歩んできました。
性格が歪んでいた時期もあれば、
お金がなく親から金融機関から借金をしたこともあります( ˘•ω•˘ )
そんな私が、ネットビジネスと出会い、
正しい知識を学び、正しく実践したことで、
充実した日々と新しい夢を手にすることができました。
何も特別なことはしていません。
師匠と出会い、正しく学んで正しく実践しただけです。
ちいさなきっかけと行動する勇気があっただけです。
今は、私のこの経験や私が手にした知識を発信することで、 ・自由を手に入れる人が増えてほしい ・自由を手にすることで、心のゆとりをもち、日々の生活をより楽しめる人が増えてほしい ・何かを理由に夢をあきらめない、一緒に夢を追いかける仲間がほしい そう思っています。
一緒に、“人にもお金にも時間にも場所にも縛られずに過ごす人生”を手に入れましょう。